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もしも何かに物凄く強い影響を受けて「こんなものがやりたい!」と思った場合、
どんな手段を取ってでもそこに潜り込み、そこの一員になれば良いと思う。
もしも自分で何かを作るなら、そこでは自分にしか出来ないものを作るべきと思う。
例えば、演劇が好き、演劇を勉強してます、という人達よりも、
これまで小劇団なんか観た事がないという、
サラリーマンやOLさんや主婦の方、或いは学生さんや年配の方に、
もっと気軽に、何か面白そうだと、フラリと立ち寄ってもらいたい。小劇場。
そしてそこには、めちゃくちゃに、色んなものが、あって欲しい。
自分の書いた"台詞"が舞台上で文字のままであるのは嫌だ。会話として不自然なのも嫌だ。
役者はその役で普通に喋ればいい。それで声がきちんと届くようにしておけばいい。
そしてそのために役をちゃんと作ればいいし、その状況をちゃんと作ればいい。
それが出来たら、逆に何でもありだと思う。ありじゃないのは嫌だ。
あ。舞台上の人の呼吸や動きに無駄があるのも嫌だ。
何かが足りないのも嫌だ。いわゆる"演劇的な動き"も嫌だ。
その役で普通に居ればいい。そのためには呼吸と身体と意識をそのように調整すればいい。
そいで、普通じゃない流れも、普通にやればいい。過不足なく。
普通じゃない状態も、普通に普通じゃなくやればいい。過不足なく。
キャラクターや表現を誇張する時、その内面に隙間があったら嫌だ。
その隙間に役者本人が見え隠れするのは勘弁だ。一番嫌だ。
どんな役でも自分自身はちゃんと隠れてて欲しい。出てこないでおくれ。
またキャラクターや表現の誇張は、大胆にも繊細にも、どちらも対応出来なくてはいやだ。
いわゆる芝居的な会話のテンポの、その早過ぎるのも遅過ぎるのも嫌だ。
効果的なテンポや観せ方は、その瞬間ごとに探ればいい。
自然で無駄のない状態から、それを探ればいい。いいのだー。
自分は演劇も文学もあんまり詳しくない。
これじゃいかんと勉強はするし、もともと興味はあるんだけど、
でも、もっと興味があるものが他にもある。
今んとこ、そっちの方が詳しかったりする。かなり偏っているが、かなり詳しい事もある。
それは何の役にも立たないけど、結局はそれが、
書くものの原動力になってたり、書くもののモトになってたりもする。
ほんじゃあ、それに特化しているのも悪くない。どうせなら極めよう。開き直り。
私の両親はダンサーだ。社交ダンスの教室を開いている。
酒や煙草はしない、下世話な面が驚くほどない人達で、
どんな生徒さんにも真面目にコツコツとダンスを教える。
私はダンスにはずっと興味がなかったから最近になってから気づいたが、
二人が組んで踊り出すと、それだけで一つの世界が出来る。
二人のダンスは、とても真摯で誠実だ。
何かを表現しようという意識が前に出る事はなく、
誠実に鍛錬してきた動きの一つ一つ、それらそのものが自然と表現となり、
情感と動きが本当の意味で、一体となっている。
そして、まったく過不足ないその動きを、流れるように綴っていく。
そうした流れこそが、ダンスによる物語、表現、情感、世界を、作っている事が分かる。
それを見ると、どんな動きや表現をするのであっても、
重心と、骨や内側の筋肉から発せられて自然と外側の筋肉に届く流れ、その呼吸との関係、
それをコントロールするだけの鍛錬の重要性などに、より敏感になる。